計画停電 −パチンコ、自販機を止めろ−

 東京都知事選に勝利した石原慎太郎が、テレビで夏場の計画停電について聞かれ、猛暑で老人が死亡したフランスの例を挙げ、計画停電を回避するためにはパチンコや自動販売機を抑制すべきとの話をしていた。

 全くその通りだと思う。

 視点を人間の生き方の根本にまで遡らせると、そもそも人類が滅亡に向かって消費をどんどん拡大させている現状は、狂気の沙汰であることをまず認識すべきである。日本やアメリカの現状の消費生活を全人類が共有することは絶対に不可能であることは自明であり、また、現状の化石燃料や原子力に頼った生活が維持できるのは、あと数十年しかないことも自明のことである。にもかかわらず人間は消費拡大に向かってまっしぐらに突き進んでいる。

 地球温暖化防止といってCO2削減を叫んでいるが、前提条件が全く間違っていると思う。環境基本法第4条の見出しは(環境への付加の少ない持続的発展が可能な社会の構築等)となっており、未だに物質的な発展を掲げている。いつまで物質的な“発展”を目指せば気が済むのか?と思う。環境白書がエコ商品の宣伝文書に成り下がり、環境省が家電製品や車の買い替えを奨励する。ニュースを見ていたら、クーラーなどの省エネデータは、フル運転した時のデータで通常運転では宣伝しているほどの差が無いなどといっていた。この責任は誰が取るのか?間違ったデータでメーカーの言いなりに買い替えを奨励する環境省とは何なのか。同様のことは、家の断熱についてもいえるらしい。

 需要に対して電力が足りなければ、停電するのは当然のことである。この完全に当たり前のことに直面して、全うな対処法は二つしかない。皆が我慢して停電を避けるか、皆の欲望を今まで通り押し通して停電にするか、である。

 計画停電は人の命が掛かっている。病院で非常用発電機が故障したら相当数の人間が死ぬだろう。老人は熱中症で死ぬ人間が出るだろう。特に貧しい老人達が。人の命よりも個人の欲望が大切というなら計画停電して、使えるときには浴びるように電気を使ったら良い。

 私が生まれた家には、ほとんど電気製品がなかった。裸電球と真空管式ラジオくらいか。だから電気がなくても生活には全く困らなかった。照明にはまだ油のランプがあった。物を消費することが人間の発展だといつから考え始めたのか。池田内閣の所得倍増計画あたりからか。物質的には進歩したかもしれないが、人間の心魂は卑しさを増したのではないか。思慮は浅薄になり、大人のやることは子どもじみてきた。

 石油ショックの時は、エネルギー全体の消費量を減らす必要があったので夜のネオンを消したり、テレビの夜間放映を中止した。今回の電力不足は、ピーク時の電力不足による計画停電であるから最大電力量を減らせば良いだけである。不要不急の施設を止めるのは当然のことであろう。なぜパチンコ屋と病院を同等に扱わねばならないのか?パチンコをする権利と人の生死が掛かった医療行為の維持が同等で良いのか?自動販売機で少し便利と感じる心と人の命が同等なのか?夏の電力といえば、甲子園の野球の放映もある。生中継する必要も無いであろう。

 こんな当たり前のことを考えもせず、生産業界だけに負担を強いる菅政権はぼんくらだと思う。政党の体もなしていない民主党の存在は迷惑である。菅を下ろせば良いと考えている民主党議員もいるようであるが、そんな屑議員も含めて民主党は完全に消し去るべきである。小沢も。そのチルドレンも。

(2011年4月11日 記)

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